第3章 猶予期間という選択

診断を受けてからの数日は、輪郭のないまま過ぎていった。
朝が来て、夜が来る。その繰り返しの中で、私はまだ、何も決められずにいた。

体は動かないのに、頭のどこかでは、いつものように出社する自分を探していた。
明日には戻れるかもしれない。来週には、きっと。
そう思い直すたびに、胸の奥が静かに縮んでいった。
休むという言葉は、どこか“逃げる”という響きと重なって見えた。

ある夜、子供を寝かしつけたあとで、妻が静かに口を開いた。
「少し、休んでもいいんじゃないかな」

責めるでも、急かすでもない声だった。
私はすぐには答えられなかった。
休むことを許されている気がして、それなのに、その許しを受け取るのがどこか怖かった。

「迷惑をかける」
そう言いかけた私に、妻は小さく首を振った。
それ以上は何も言わなかった。
台所には、洗い終えた食器が静かに並んでいた。
その当たり前の風景が、その夜はなぜか深く胸に残った。

休職を決めたのは、それから数日後のことだった。
書類に名前を書きながら、本当にこれでいいのだろうかと何度も思った。
ペンを置いたとき、長いあいだ強張っていた肩から、ほんの少し力が抜けていくのを感じた。
罪悪感と安堵が、同じ場所に静かに並んでいた。

休みに入ってからの時間は、ゆっくりと流れた。

朝、子供が「行ってきます」と手を振る。
私は今度こそ、「行ってらっしゃい」と返すことができた。
会社へ向かう側ではなく、子供を送り出す側に、もう一度立っている。
ただ玄関に立って、その小さな背中を見送る。
それだけのことが、思いのほか長く感じられた。

昼間の家は静かだった。
洗濯物が風に揺れる音。遠くを走る車の気配。
これまで気づかなかった小さな音が、ひとつずつ耳に届いてくる。
何もしていないという後ろめたさは消えなかった。
その静けさの底で、私の体は、少しずつほどけ始めていた。

夕方、ランドセルを背負った子供が帰ってくる。
「お帰りなさい」
そう声をかけられる側ではなく、かける側でいられること。
当たり前のはずだったその時間が、今はやけに眩しく感じられた。

ある日、ふと思った。
これは、逃げているのではないのかもしれない。
止まってしまったのではなく、もう一度進むために、立ち止まることを選んだのだ。
猶予期間。
そう呼べる時間が、自分にも許されているのかもしれない。

答えは、まだ出ていなかった。
ただ、守りたいと願っていたあの小さな日常の光のそばに、
私は今、もう一度、静かに戻ろうとしていた。

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