その朝も、いつもと同じように始まるはずだった。 カーテンの隙間から淡い光が差し込み、家の中には、まだ眠たげな空気が静かに残っていた。
目覚まし時計の音を聞きながら、私はいつものように体を起こそうとした。 その日は、体が思うように動かなかった。布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見つめていた。眠気とは違う重さが、体の奥に沈んでいる。頭の中には薄い霧がかかったようで、今日という一日をどこから始めればいいのか、うまく思い出せなかった。
「パパ、おきて」 子供の声が、すぐそばで聞こえた。いつもなら胸の奥をやわらかく温めてくれるその声が、その朝は遠くから届く音のように感じられた。返事をしようとして、少し笑おうとして、けれど顔も声も、思ったようには動かなかった。
妻が、静かにこちらを見ていた。 そのやさしさを受け止める余裕がなく、私はただ、申し訳なさだけを胸の奥に積もらせていた。
なんとか起き上がり、食卓についた。湯気の立つ味噌汁の香りが、いつもの朝と変わらず漂っている。子供の声も、茶碗に箸が触れる小さな音も、そこには確かにあった。私は、その中へうまく入っていくことができなかった。
家族の朝はすぐ目の前にある。 なのに、自分だけが薄い膜の向こう側に取り残されているようだった。
会社に行かなければならない。そう思うたびに、胸の奥が静かに縮んでいった。理由をはっきり言葉にできないまま、体だけが、もう進めないと告げていた。
玄関で、子供が小さく手を振った。 「行ってらっしゃい」 その言葉に、私はいつものように「行ってきます」と返したかった。声は喉の奥で止まったままだった。笑って送り返すこともできず、私はただ、そこに立っていた。昨日まで当たり前にできていたことが、その朝はどうしてもできなかった。
駅のホームに着いたとき、足が止まった。 近づいてくる電車の音が、体の外側ではなく、胸の内側に響いてくるようだった。人の流れは変わらず前へ進んでいる。私は、その流れに一歩を踏み出せなかった。
呼吸が浅くなる。手のひらに汗がにじむ。 それでも、誰にも何も言えなかった。
会社に行けない。 その事実は、大きな音を立てて崩れ落ちたわけではなかった。むしろ、とても静かだった。その静けさの中で、私の日常は確かに立ち止まってしまった。
病院の待合室で、私は椅子に座ったまま、床の一点を見つめていた。隣には妻がいた。何か声をかけてくれていたのかもしれない。けれど、その言葉を受け取る力が、そのときの私には残っていなかった。
医師から告げられたのは、「適応障害」という言葉だった。 その瞬間、何かがはっきりしたようでいて、同時に、自分がどこか遠くへ押し流されていくようにも感じた。心と体が、これ以上は進めないと、ずっと前から知らせてくれていたのかもしれない。
私は壊れてしまったのだろうか。 それとも、ようやく止まることができたのだろうか。 答えは、まだわからなかった。
ただひとつだけ、胸の奥に残っていた。 「行ってらっしゃい」と送り出し、「お帰りなさい」と迎える、あの小さな日常の光。 それを守りたいと願っていた私自身が、今はその光のすぐそばで、立ち止まることしかできなくなっていた。
突然の停止は、激しい断絶としてではなく、静かに訪れた。
その静けさは、私の人生の向きを、少しずつ変え始めていた。

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